「あいわかった」の意味
「あいわかった」という言葉をご存知でしょうか?「あいわかった」という言葉をよく目に耳にするのは、漫画や時代劇などのフィクションのシーンで、普段は「あいわかった」という言葉をあまり聞くことはありません。
この「あいわかった」という言葉は、厳かなニュアンスを聞き手に与えますが、古い言葉なのでしょうか?その言葉の印象から現在とは違い、封建社会の身分制度などにも影響していることも想像してしまいます。
今回は「あいわかった」の意味を、使い方、語源を例文を交えて紹介していきます。まずは以下で扱う「あいわかった」の意味から説明していきます。
意味:よくわかった
「あいわかった」は「よくわかった」という意味になります。「あい」とは接頭語といい、動詞について、語勢や語調を整える役目を担っています。この接頭語の使い方は現代の日常生活でもよく使われており、「あい成る」「あい変わらず」などで見受けられます。
「あいわかった」の「あい」が先述した役目をはたしていることで、「よくわかった」という意味になり、「わかった」より相手に強く自分の理解をアピールしていることになります。これが、厳かな、やや重い印象を受けた理由になります。
「あいわかった」と同じような「自分から発信している」表現に「あいすまん」「あいすみません」という言葉があります。この「あい」は語勢や語調を整える役目を担っているわけでなく、「相すむ」という言葉の未然形になります。
漢字表記は「相分かった」
「あいわかった」の漢字表記は「相わかった」になります。「相わかった」は「相」と書く以上、「相手」という意味を想起させますが、そこはどうでしょうか?
「相わかった」は「相手」や「互いに」という意味はなく、「相」の漢字そのものの意味合いは薄く、いわば「当て字」の位置付けとしての和語と捉えるのが自然です。
「相わかった」の「相」自体は、もともとその漢字が持っている意味が含まれておりました。その語源は以下で紹介するとして、「相わかった」の場合の「相」には意味はないと覚えておいてください。
「あいわかった」の語源
先述でも触れた通り、「あいわかった(相わかった)」の「あい(相)」は、語勢や語調を整える役割として存在しており、「あい(相)」自体には、意味はありませんが、もともと「あい(相)」は、どのような意味があったのでしょうか?今回はその語源を辿っていきます。
日本の古典とも言える「古事記」「万葉集」「古今著聞集」の中にも、この「あい」という言葉の語源を見ることができます。この「古事記」「万葉集」「古今著聞集」の中で「あい」どのように使われているのか?その語源を3作品を通して具体的に見てみます。
古事記
古事記は712年完成された日本で現存する中で最古の歴史書になります。世界の成り立ちから、天皇の皇位継承にいたるまで、3巻に渡って叙述されています。
古事記の編纂方法は中国から伝わった「紀伝体」とよばれる編纂方法で、各人物の事績を中心に編纂を行っています。古事記の書体も、中国から持ち込まれた伝統そのものの漢字が占めています。その中で、「相」という漢字が多く散見されています。
古事記 上-1 併序では、漢字原文で「懸鏡吐珠而百王相續」と叙述されております。「相續」とは現代の「相続」になります。訓読すると「百(よよの)王(おほきみ)相(あひ)続(つ)がむ」となり、王位を継承することを叙述しています。
古事記 上-2神代記では、漢字原文で「布斗麻邇爾上此五字以音ト相」と叙述されています。訓読すると「ふとまにに卜相(うら)へて」となります。「布斗麻邇(ふとまに)と呼ばれる一種の占いによって」という意味で、この場合の「相」は「占い」を指しています。
古事記 上-4大国主命では、漢字原文で「爲目合而、相婚」と叙述されています。訓読すると「目合(まぐはひ)して、相
古事記 上-5 葦原中国の平定では、漢字原文で「此二柱神之容姿、甚能相似」と叙述されています。訓読すると「此の二柱の神の容姿、甚能(はなはだよ)く相似(あいに)たり」となります。
「この二柱の神の容姿は互いに似ている」という意味で、この場合の「相」は「互いに」という意味となります。
古事記 中-6 応神天皇記では、漢字原文で「爾自其喪船下軍相戰」と叙述されています。訓読すると「爾(ここに)、其の喪船(もふね)自(よ)り軍(いくさ)を下(おろ)して相(あひ)戦ふ。」となります。
「ここに喪船より軍を下ろして戦がはじまり」という意味で、この場合の「相」は「互いに」という意味となります。
古事記 中-4 景行天皇記〜成務天皇記では、漢字原文で「故爾到相武國之時」と叙述されています。訓読すると「ここに、相武(さがむ)の國に到りませる時に」となります。「相模の国に着いた時」という意味で、この場合の「相」は「相模」の地名の意味となります。
古事記 下-2 履中天皇記〜安康天皇記では、「故不相言」と叙述されています。訓読すると「故(ゆえ)に相(あい)言(いわ)不(ず)」となります。「会って話をしない」という意味で、この場合の「相」は「会う」という意味となります。
このように古事記で、語源の「相」が多く散見されます。いまから、約一千三百年も前まで語源が遡る位に、「相」は非常に長い期間多くのシーンで使われてきたことが、古事記を通じて理解することができます。
万葉集
万葉集は日本で現存する最古の和歌集であり、全20巻にわたり、さまざまな人を詠み、その数は約4,500首にもなります。また、万葉集の成立時期は744年頃と言われています。この万葉集でも「相」の語源が非常に多く散見されます。
万葉集 第十巻では、漢字原文で「春雨尓 相争不勝而 吾屋前之 櫻花者 開始尓家里」と叙述されています。訓読すると「春雨(
「春雨(
万葉集 第一巻では、漢字原文で「高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曾 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉」と叙述されています。
訓読すると「香久山は 畝火(うねび)雄々(をを)しと 耳成(みみなし)と 相(あひ)争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしえ)も しかにあれこそうつせみも 妻を争ふらしき」となります。
「香久山は、畝傍山(うねびやま)が素敵だと、耳成山(みみなしやま)と争ったということです。神代からそのようで、昔からそうなのだから、今のこの世の中でも妻をめぐって争うのですよ。」という意味で、この場合の「相」は「互いに」という意味となります。
万葉集 第二巻では、漢字原文で「青旗乃木旗能上乎 賀欲布跡羽 目尓者雖視 直尓不相香裳」と叙述されています。訓読すると「青旗(あをはた)の 木旗(こはた)の上を 通(かよ)ふとは、 目には見れども ただに會(あ)はぬかも」となります。
「天皇の御霊が完全に飛び去っていたかないように青旗を木につけて通せんぼしている。旗の揺れる様子で御霊が旗の辺りを飛んでいるのが分かるけれども、御霊が御身体にお戻りになった天皇ともう一度お会いすることはできないのでしょうか」という意味になります。
この場合の「相」は「會(あ)う」「会う」という意味となり、現代では「見る」に近いニュアンスになります。
万葉集 第十七巻では、漢字原文で「春花能 宇都路布麻泥尓 相見祢婆 月日餘美都追 伊母麻都良牟曽」と叙述されています。
訓読すると「春花(はるはな)の、うつろふまでに、相(あひ)見ねば、月日(つきひ)数(よ)みつつ、妹(いも)待つらむぞ」となります。
「春花(はるはな)が散ってしまうまで逢っていないので、妻は月日を数えながら待っていることでしょう。」という意味で、この場合の「相」は「見る」とセットで「相見る=逢う」いう意味となります。
万葉集 第十一巻では、漢字原文で「香山尓 雲位桁曵 於保々思久 相見子等乎 後戀牟鴨」と叙述されています。
訓読すると「香久山(かぐやま)に、雲居(くもゐ)たなびき、おほほしく、相(あひ)見し子らを、後(のち)恋(こ)ひむかも」となります。
「香久山(かぐやま)に雲(くも)がたなびいているようにぼんやりと、見かけたあの娘さんを、あとで恋しく想ってしまうのでしょうね」という意味で、この場合の「相」は「互いに」という意味となります。
古今著聞集
古今著聞集は、13世紀の鎌倉時代、伊賀守橘成季によって1254年に編纂されました。事実に基づいた古今の説話を集めて、昔を懐かしむ思想を広め伝えようとする世俗説話集です。全726話からなります。
古今著聞集には「相」の語が随所にみられます。一節を抜粋すると、「相傳して親守入道がもとにあり」「唐土は大國なれば所に相應していきほひかくのごとし」とあります。
「相傳」とは「物事を何代にも渡り受け継いでいること」を指します。現代での「相伝」の語源となっており、「一子相伝」という言葉が有名な漫画「北斗の拳」でもおなじみです。
「相應」は「ふさわしいこと。つりあっていること。」を指します。現代での「相応」の語源となっている言葉になります。
また、「此事によりて心の中に日ごとに相待ところに」「丞相の相あひ見えける」と叙述された一節もあります。
「相待」は「相待つ」という言葉で知られている言葉で、「相対していく」ことです。「丞相の相」の「相」は「姿、形」を表す意味で、現代でも普通に使われています。
また、「相をならひて目出たくし給ひけるとぞ」「彼朗詠のこゝろいと相違なきにや」と叙述された一節もあります。
「相をならいて」は、かつて「人相」を見る人を「相人」と言いました。その「人相」を習ってと訳すことができます。
「相違なきにや」は現代でも使っている「相違ない=違いない」という意味になります。古今著聞集の時代になると、現在に通じる「相」の使い方を随所に垣間見ることができます。
「あいわかった」の使い方
「あいわかった」の語源である「相」が日本古来から使われていることが確認できました。そのような「相」の語源が変化して、現在「あいわかった」の意味となりましたが、使うとした場合、どんなシーンがふさわしいのでしょうか?
次に「あいわかった」どのように使うことができるか、例文も交えて「あいわかった」の具体的な使い方を紹介していきます。
昔にサムライ言葉として使用された
「あいわかった」は昔にサムライ言葉として使用されていました。サムライといえば、日本の封建時代を想起させます。封建時代は鎌倉時代から江戸時代にかけて「士・農・工・商・穢多、非人」という身分が決められ、差別を生じさせた階級社会のことです。
そういう時代が背景にあるので、当時の侍の階級で使われていた「あいわかった」はどこか厳かで、重い印象があります。「あいわかった」という言葉は決して全ての人が使うような開けた言葉ではありませんでした。
「あいわかった」を使っていたサムライは、どのような存在なのでしょうか?改めて考えてみると、さらに「あいわかった」の言葉のニュアンスをイメージできます。
サムライ=武士とは「死ぬ事と見つけたり」と葉隠という武士道論書でも有名なように尚武思想があります。要は、武勇を尊ぶ思想で、「武」のためには死をも厭わない考え方です。
そして、「義」という思想もサムライ=武士には深く関わりのある考え方です。主君の為に、命を賭す生き方です。不始末などは自らの責任を「切腹」などで、解決する自殺文化もあり、常に「死」が隣り合わせに存在していました。
そういう背後関係を探ると、「あいわかった」という言葉の重みがズシンと増して響いてきます。サムライの言葉は重く、二言はない世界なのです。
そういう時代の中で、「あいわかった」の使い方をする状況はどういうものでしょうか?例文として時代劇などを設定してみると、1人の武士が、村民 (農民でも商人でも)から助けを求められて「あいわかった」と返答するシーンなどしっくりきます。
また、武士同士の決闘のシーンなどをイメージしてみると、媒介人から、「骸」の埋葬先を尋ねられ、返答する一連の問答でも「あいわかった」という言葉が使われて差し支えないです。
このように、「あいわかった」という言葉は、単なる「よくわかった」という言葉面を超えて、時代背景をも踏まえた、一種の覚悟を秘めている言葉です。
「あいわかった」の例文
「あいわかった」はサムライ言葉としての使い方がマッチしていることは理解できました。では、現代では「あいわかった」の使い方はどうなるのでしょうか?
現在もかつて日本の封建社会とは言えませんが、上司と部下、親子、兄弟姉妹、同期や友達、恋人同士など、さまざまな人間関係が入り組んだ社会に私たちは生活しています。例文を交えて現代社会において、「あいわかった」がどんなシーンにぴったりくるのか検証してみました。
あいわかった お任せあれ
現代では、敬語という人間関係を円滑にするための敬意を表す言葉が存在します。その点に留意して「あいわかった」という言葉をみていると、敬語ではない平常語であることがわかります。
上記の理由から、「あいわかった」は目下から目上の方への発言というシーンには馴染みません。例えば部下から上司へ、妹・弟から姉・兄へ、子から親へなどが当てはまります。
「あいわかった お任せあれ」という言い方を例文として扱って見る場合、同僚や同期の対等の立場からの頼まれごとに対して「あいわかった おまかせあれ」と返答することがイメージできます。
上記例文は、親しい友人同士、恋人同士でも上記の条件が当てはまります。その場合に使用すると冗談っぽく聞こえたりする効果があります。
上記例文のように、同期・同僚、友人関係、恋人関係で、「あいわかった お任せあれ」という言葉のやりとりが現実的な使い方です。
すまぬ あいわかった
もうひとつ「すまぬ あいわかった」という例文を当てはめてみます。これも先述の例文「あいわかった お任せあれ」のように、目下の者が目上の者へのものの言い方ではないことは同じです。
ただ、例文「すまぬ あいわかった 」は同期・同僚、友人、恋人同士などの等しい関係だけではなく、目上の者から目下の者へのものの言い方でもシーンとしては当てはまりそうです。
例文として、上司が部下からの指摘を受けて「すまぬ あいわかった」と自分の非を素直に認めた場合などが当てはまります。親子関係や兄弟関係でも、目上の者が目下の者に対して、謝罪とよく理解した、と意思を表明することも現実的です。
「あいわかった」とわかり申したの違い
「あいわかった」に近しい言葉に「わかり申した」という言葉があります。この両者、一見同じ意味に見えますが、よくよく比較してみると使い方に違いがあることがわかりました。
次に「あいわかった」と「わかり申した」この両者の使い方の違いを例文を交えて紹介していきます。どちらも封建社会でよく使われていた言葉なのは同じですが、具体的な使い方の相違を比較してみてください。
「わかり申した」は武家言葉
「わかり申した」は「申す」という謙譲語が入っています。自らを遜っているわけです。そういう意味から、「あいわかった」という野武士でもつかえるようなぶっきらぼうな言葉というよりも軍事的な官務を司る家柄である武家の言葉であると言えます。
武家と言えば、その1人1人が武士であるだけではなく、主従関係のみならず、横のつながりもしっかりとした一つの組織的な機能を有しています。つまり、しっかりとした人間関係がその背後に張り巡らされているのです。
その状況で「あいわかった」と謙譲もせず発すると、身分によっては無礼であり、人間関係上、使いづらいことも多々あります。そのことを勘案すると「わかり申した」は角が立たず、かつ相手を立てることができる言葉と言えます。
「あいわかった」が使われている漫画
現代ではあまり使われない「あいわかった」。しかし、漫画の世界では登場人物が言うセリフなどで、世界観を効果的に演出しています。
今回は「あいわかった」が確認できる漫画を3作ピックアップしてみました。まだ読んだことのない方を今記事をきっかけに是非目を通して見てください。
バガボンド
まず、井上雄彦 作のバガボンドで「あい わかった お願いします」というセリフを登場人物の植田良平が使っています。植田良平は吉岡十剣の1人で、「バガボンド 強さランキング」でも上位にランキングする程の剣客です。
詳しいストーリーやシーンは、実際の漫画をお読みになってご確認ください。場の空気がキリキリするシーンで「あいわかった」が確認でき、その使い方の参考になります。本作は画力の高さと哲学的なテーマの深さに感動させられる名作です。
まだ、未完で次の新作が待望されていますが、物語は終盤まで進行していると思われるので、サムライの世界観にどっぷり浸かることができ、未読の方は必見です。
キングダム
キングダムでも「相分かった」と言う場面があります。山界の死王で女王の「楊端和」(ようたんわ)のセリフです。類稀なる武力、美しい容姿、そのカリスマ性で配下を統率する、多くの読者を魅了するキャラクターです。
伝令のある報告を受けての、上記のセリフ。意味深なシーンで、是非一読していただき、そのニュアンスを掴んでいただければ幸いです。
アシガール
舞台が戦国時代である、アシガールでも「あいわかった」のセリフが登場します。これは、コメディの要素もあり、カミソリのようにシャープで、空気がひりつくシーンで「あいわかった」が使われている訳ではありません。
機微な人間関係の言葉のやりとりでも「あいわかった」という言葉が発せられているシーンが本作の中で確認できるので、未読の方は是非ご一読ください。
「あいわかった」はよくわかったという意味
「あいわかった」の意味、漢字、例文、古事記などの古典を辿った語源を交えて紹介してきました。古い言葉でもある「あいわかった」、よくわかったという意味ですが、現代にはあまり使い方に限りがあり、実用性に乏しいのが現状です。
今後、時代劇や漫画など、日本の古き古典を題材にした作品をご覧いただく際は是非本記事を参考にしていただければ幸いです。