「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の意味とは?
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言葉は、「山月記」の作中に出てくる言葉の1つです。「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は「山月記」の山場の1つでもあり、とても有名な言葉です。
山月記は高校の現代文の授業で扱われることが多い作品ですが、内容の読解がとても難解な作品としても有名です。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という表現の意味を紐解くには作品の内容や登場人物の心理を理解する必要があります。この記事では「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の意味や心理、具体的な内容や言い換えをご紹介します。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の由来
まず山月記の作中に「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」というセリフが出てきたシーンですが、登場人物である「李徴」がかつての友人に詩を託した後に、過去の自分自身がどんなものだったかを振り返った時のセリフです。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は李徴の性格を現した言葉ですが、この言葉には様々な矛盾点が存在しています。
そのためとても難解で意味不明な言葉となっており、意味を捉えるのが難しくなっています。「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言葉は現代人にも例えられる言葉でもありますが、大人でもその意味を理解している人はとても少数です。
山月記とは
そもそも山月記とはどういった物語なのでしょうか。山月記は中島敦による短編小説で、現代から約70年も前、1942年の小説です。
唐の時代、李徴という男が詩人を目指したが敗れてしまった果てに虎になってしまい、かつての友人の袁滲にその胸中を語る、という変身譚となっています。
この山月記には元となった作品があります。清朝時代の説話集「唐人説會」の「人虎伝」という作品です。原作というだけあり山月記と人虎伝はとても似た話の構成をしていますが、それぞれで違う点があります。
山月記と人虎伝の最大の違いは、李徴が虎になった理由にあります。山月記では李徴が「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を持った性格であるが故に虎になってしまいましたが、人虎伝では病気にかかって発狂したことが理由になっています。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の特徴
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言葉には複雑な意味が込められており、とても難解な言葉です。
この言葉には「臆病な自尊心」の意味と「尊大な羞恥心」の意味を合わせることで初めて1つの言葉になる、という特性があります。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の意味は全て山月記の作中にて李徴が語っています。ここでは「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が持つ特徴を「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」の意味に分けてご紹介します。
山月記という作品のポイントは、李徴がどうして虎になったのか、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」とは一体なんのことなのか、という二つの点です。この二つはそれぞれ関係しており、それが山月記を理解するポイントでもあります。
似ているようで矛盾している言葉
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言葉には大きな矛盾が存在します。それは本来組み合わせるべき言葉が逆になっている点です。
「自尊心」とは自身のプライドのことで、自信がある様を現わした言葉です。しかし「自尊心」と組み合わせになっている言葉は「臆病」です。「羞恥心」とは恥ずかしいことや隠したいような様を現した言葉ですが「尊大」という言葉と組み合わさっています。
なので本来ならば「尊大な自尊心」と「臆病な羞恥心」という組み合わせにの方が言葉のまとまりとしては正解です。
作中で李徴が自身のことを「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」と表現したのは、李徴の性格や心が他人と比べて屈折したものだったのだと表現したかった言葉なのだと読み取れます。
臆病な自尊心
「臆病な自尊心」という言葉には、プライド(自尊心)が強いがために失敗を恐れて行動に移せない、という意味があります。
失敗して自分のプライドが傷つけられるのが怖くなり、そのため臆病になってしまうという、李徴の性格を現した言葉です。
この心理は、私たち現代人でも良くあることです。学校、あるいは職場では常に「周りの目」を気にしながら、私たちは生活しています。そんな中で周りの見下されないよう「出来る自分を保っていたい」という心理が「臆病な自尊心」なのです。
尊大な羞恥心
「尊大な羞恥心」は「臆病な自尊心」と表裏一体の言葉で、失敗して恥ずかしい結果を残すかもしれないから比べられないように距離を取る、という意味があります。
「尊大な羞恥心」は李徴が人間関係で傷つきたくない、プライドを傷つけられたくないからコミュニケーションを取りたくない、という心理状態を表現した言葉です。
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」はどちらも似た意味を持つ言葉です。「プライドを傷つけられないように相手と距離をとり、偉そうに見下す態度を取る」という李徴の性格や心理を「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が表しています。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」と山月記の関係
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は山月記の話の中核を担っている程重要なセリフです。そもそも山月記の話のあらすじは、李徴という一人の男が詩の道で名を上げようとするが上手くいかず精神的に追い詰められて最後には虎になってしまう、というものです。
なぜ最後に李徴は虎になってしまったのか、という所が物語を理解するポイントであり、面白い所なのですが、その理由を紐解く上で重要なのが「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」です。
李徴がどんな人物で、どのような心境の変化が起こったのかの全てを現す言葉として「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」と表現しています。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の言い換え
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の意味は、言い換えると「プライドが強いがために失敗した時を恐れて臆病になってしまう性格や心理」とも言えます。
山月記では作中に「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」を現している李徴の行動や心理が出てきます。「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を言い換えるなら、その行動や心理が言い換えと言えます。
ここでは「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の言い換えをご紹介します。言い換えが難しい言葉ですが山月記の物語を読むことで「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」にどんな意味があるのかを理解することが出来ます。
師に就かない、友人と切磋琢磨しない
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は様々な言い換え方が出来る言葉です。「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」には「臆病な自尊心」という意味と「尊大な羞恥心」の意味があります。
山月記の作中で李徴は自身のことを語っており、そのセリフを整理すると「臆病な自尊心」は「恥ずかしい心、人との交流を避けること」と読み取れます。
作中で李徴は「己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて誌友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。」と語っています。これが「臆病な自尊心」です。
つまり臆病な自尊心を別の言葉に言い換えるなら、「師に就かない、友人と切磋琢磨しない」とも言えます。
苦難に飛び込まない、挑戦しない
「尊大な羞恥心」はプライドが高いがために失敗したり恥ずかしい目に遭う可能性があることから距離を置く心を現した言葉です。
李徴は作中で「俗物の間に伍することも潔しとしない」と語っています。これは自分には才能があるが、もし周りに自分より上の才能を持っていたらそれを見たくない。だから人と関わりたくない、という李徴の性格を現しています。
「尊大な羞恥心」を別の言葉で言い換えるなら「挑戦しない、苦難に飛び込まない」と言い換えれます。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の具体例
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」と言える行動や心理は、李徴だけに限ったことではなく、私たち現代人にも当てはまります。
ここでは「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の具体的な内容や、どういった心理や行動が「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」に当てはまることなのかを説明します。
作中の表現では「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の具体的な内容を理解するのは難しいですが、現代の出来事に置き換えるととても理解しやすくなります。「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は現代人の心を現した言葉でもあります。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の心理
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は、自尊心が強いがためにその自尊心が傷つけられるのを恐れる心理と、羞恥心にとらわれる機会を持たないように他人を避ける心理が合わさったフレーズです。
この言葉の特徴の1つとして、本来結びつくべき言葉が逆の組み合わせになっている点が挙げられます。本来なら「尊大な自尊心と臆病な羞恥心」と組み合わせるのが言葉としてしっくりきます。なぜ逆の組み合わせになっているのでしょうか。
それは、あえて逆の組み合わせにすることによって自負と自己否定の心に振り回される心理状態を表現していると思われます。
プライドが傷つけられるのを恐れる
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の心理は、自分には才能があるというプライドと、実はそんな才能は無いんじゃないかという自己否定に振り回される状態のことです。
学校や仕事で例えるなら、自分には周りに負けない得意分野があるが、その一方で自分の身近にもっと仕事の出来る人がいるかもしれない、もしいるとしてもそれを目の当たりにしたくないと思っている心理のことを指します。
このようにプライドが強い反面、そのプライドを傷つける可能性があることを極度に恐れるという矛盾が「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の心理です。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の行動
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が指す行動とは一体どんな行動のことなのでしょうか。「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の行動と心理は表裏一体の関係にあります。作中では李徴は、他人と比べられて自分のプライドが傷つくのが怖いがため、他人との交流を断っています。
このことから、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の指す行動とは、対人関係において、他人と比べられないように距離を置く行為のことだと言えます。
もっと言えば「尊大な羞恥心」によってプライドが傷ついて恥ずかしい思いをしたくないので大きな態度をとって相手と距離を置くことだとも言えます。
見下した態度で距離を置こうとする
他人と比べられてプライドが傷つくのを恐れる、というのが「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の心理です。「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の指す行動とは、このプライドを守るための防衛行動のことを指します。
作中では李徴は相手と距離を置くため(プライドを傷つけられないため)に尊大な態度をとっていました。
私たち現代人に置き換えて表現するなら、対人関係やスポーツにおいて、どうしても勝てない相手がいる時に「本気を出してないから。」と現実逃避をすることが「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」と言えます。
李徴が言う「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」の内容
作中で李徴は、自分は詩に自信はあったけれど一向に世間からの評価を得る事が出来ず、自分には詩の才能がないのかもしれないという気持ちはあったけれど、その反面誰かからダメ出しをされてプライドがズタズタになるのは耐えられない。と話しています。
作中で李徴は「自分は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて誌友と交って切磋琢磨に努めることをしなかった。」とも語っています。これが李徴の言う「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」です。
李徴が虎になった理由
山月記の山場の1つとして、李徴が虎になった理由を友人に話すシーンがあります。李徴は自信が虎になった理由として「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が要因の1つだと話しています。
この「李徴が虎になった理由」には様々な考察があります。李徴自身が言っていた「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が理由だという説の他、「理由は特に無く、虎になったという理不尽を受け入れることがさだめ」という説もあります。
山月記が教えてくれること
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」及び山月記が教えてくれる教訓は、対人関係においてプライドは付き物だけれどそれに振り回されてはいけない、ということです。
学校や仕事、スポーツ等、普段の生活を営む上で「人と関わる」ことは避けて通れません。そして誰にでも大なり小なりプライドというものが存在し、人生を歩んでいると時にはプライドを傷つけられるような嫌な体験をすることもあります。
しかしそれが自分や相手の成長の糧になることもあれば人間関係を円滑にすることもあります。人間関係がないと人は生活していけないのです。
李徴はこの大切な人間関係を忘れてしまったがために、人ではない「虎」になってしまったという考え方も出来ます。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は失敗してプライドが傷つくのを極度に恐れるという意味
山月記では、李徴は「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」を持っていたがために虎になってしまったと語っています。
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」とは、プライドのある人間が、他人と比べられてプライドが傷つくのを避けるためにあえて尊大な態度をとって相手と距離を置く心理や行動のことを意味します。
誰にでも大なり小なりプライドがあります。プライドがあることは悪いことではないけれどそれに振り回されてはいけない、ということを山月記では教えてくれます。