壮観の意味とは?
「壮観(そうかん)」とは、景色や風景などの規模の大きさがとても素晴らしい、という意味をもつ言葉です。建造物などの規模を見た時に感動するさまを表しており、感嘆の言葉として使用されています。
壮観の対義語・類義語
続いて「壮観(そうかん)」に近い意味をもつ言葉や、まったく反対の使い方の言葉についてご紹介します。意味や使い方、またその例文を交えて、ニュアンスの違いなどをなるべく深く理解できるようにお伝えしていきます。
壮観の「類義語」
「類義語」とは意味や言葉のもつ雰囲気が似た言葉のことです。「壮観(そうかん)」と同じ場面やシチュエーションで用いられるものの、少し意味が違っていたり表現する先が違う言葉もあります。壮観との意味や使いどころの違いを知りましょう。
誤った使い方で覚えてしまうと、後々の修正が大変になります。この機会にしっかりとそれぞれの意味や使い方を把握してしまいましょう。
「雄大」の意味・読み方とは
「雄大」とは「ゆうだい」と読み、意味は”物事の規模が大きいさま”をあらわします。「壮観(そうかん)」との違いで最も大きな点は、壮観が”景色”を意味するのに対して、「雄大(ゆうだい)」は規模そのものを指しあらわしていることです。
ですので、使い方としては「なんという雄大な情景だ」と情景を指したり、「これはこれは雄大な建物だ」と建造物を対象にするなど、受けとなる対象と一緒に使用します。
「宏壮」の意味・読み方とは
「宏壮」とは「こうそう」と読みます。意味は”建物などが広大でりっぱなこと”で、「壮観(そうかん)」との主な意味の違いとして、「宏壮(こうそう)」は広さに焦点が当てられた言葉である点です。
建物や場所の広さに感嘆した場合に使用されるため、「なんと宏壮なグラウンドだ!」と運動場などの広さや、「この建物の驚くべき宏壮さよ!」と広さを称えるように使用します。使い方としては前述の雄大と同様の使い方が出来ます。
「壮麗」の意味・読み方とは
「壮麗」とは「そうれい」と読みます。意味は”規模が大きく、整って美しいこと”と定義されています。こちらも「壮観(そうかん)」との意味の違いとしては、「美しさなどの評価」に焦点が当てられた言葉である事です。
「壮麗(そうれい)」の使い方として「物」や「景色」などを対象とするため、「なんと壮麗な宮殿だ」という例文のような美的感覚に訴えかけられたことを表現するために使われます。
「豪奢」の意味・読み方とは
「豪奢」は「ごうしゃ」と読みます。意味は”大層ぜいたくで、派手なこと”と定義されています。「壮観(そうかん)」との違いとして、「派手さ」や「ぜいたくさ」を意味する言葉だという点が挙げられます。
そのため、「豪奢(ごうしゃ)」として表現される対象には人も含まれます。例文として「彼女の豪奢な髪には感嘆を禁じ得ない」のように使えます。建物や景色、美術品などの造詣(ぞうけい)にも使われます。
「眺望」の意味・読み方とは
「眺望」とは「ちょうぼう」と読みます。「眺望(ちょうぼう)」の意味は、”ながめ。見晴らし。広く遠くまで見晴らすこと”と定義されています。壮観が景色のすばらしさを訴えているのとは違い、眺めそのものを意味する言葉である点が挙げられます。
「眺望(ちょうぼう)」を使った例文としては、「山頂からの眺望は、近隣の地域を一望できる素晴らしい景色であった」というような使い方となります。
「偉観」の意味・読み方とは
「偉観」とは「いかん」と読みます。「偉観(いかん)」は、”すばらしいながめ”、”堂々として偉大なながめ”や”りっぱな眺め”といった意味をもつ言葉です。
「壮観(そうかん)」が規模が大きくて素晴らしい眺めという意味であるのに対し、すばらしさを強調した言葉という違いがあります。
例文として「山頂から望む風景はとても偉観だ」、「わが社のビルディングは実に偉観だ」といった使い方が出来ます。
「盛観」の意味・読み方とは
「盛観」とは「せいかん」と読みます。「盛観(せいかん)」には、”りっぱで盛大な見もの”、”にぎやかでりっぱな様子またそういう見もの”といった意味があります。「壮観(そうかん)」との違いは、すばらしさについての言及がない点にあります。
また、規模の大きさを評価しているわけでもなく、「盛観(せいかん)」はより純粋に「りっぱであること」に終始した意味を持つ言葉と言えます。
「この催しはまさに盛観を極めたと言える、すばらしい催しだ」というように、単純に「りっぱだ」と評価するよりも品の良い言葉の使い方と言えます。
壮観の対義語
まったく正反対、もしくは限りなく反対の意味をもつ言葉を「対義語」と呼びます。「壮観(そうかん)」の対義語、つまりまったく反対の意味をもつ熟語ですが、明確にこれという言葉はありません。
文として表現するのであれば、「その景色はとりたてて素晴らしいものではなかった」や「期待していた情景は感動を得られるようなものではなかった」というような例文として表現できます。
また、「壮観(そうかん)」は感動を表す言葉ですので、「なにも感じなかった」というような表現も反対の意味をもつ文として考えられます。
壮観の使い方・例文
続いては「壮観(そうかん)」を使った例文で、使い方についてのポイントを説明します。文脈の中でどの位置に据えるべきか。どのような場面で使うべきかなど、前述した類義語と比べてどのような違いがあるのかも確認しましょう。
例文①
「旅先で見つかるのは得てして発見であることが多い。それは人と人との発見であり、歴史と人との発見であり、そこに流れる心の発見だ。そうした旅先でもっとも私の心を揺さぶるもの。それは何と言っても歴史遺産ではないかと私は思う。
だから歴史や人を感じさせるその姿を見にした瞬間に、私の胸に強く去来する言葉は”壮観”という言葉以外にには見当たらない。積み上げられた血と魂の結晶がそこに佇んでいるのだ。」
目にした情景があまりにも感動的で、壮観という言葉しか思い浮かばない、という例文です。最大級の賛辞を壮観であらわしています。
例文②
「地上から人の息吹きを感じて世界を歩くのは、流れる血潮を感じるようで活気と元気を受け取ることが出来る。そういう営みが生むパワーや感性は、きっと私たち人間が集団でこそ生きていける生物であることが理由じゃないかと思う。
だけれども、より大きな視点で人の営みを感じる瞬間がある。それは、高台やすこし小高い丘、空に舞い上がって地上を見下ろしたときに人の営みの”壮観さ”を心の隅まで感じるんだ。」
非常に大きな規模で感動的なさまを形容して使っています。普段の視点では気づけない様子も、視点を変えれば見えてくるものがあるという例文です。
例文③
「けれども、今夜は全くの無風なので、焔は思うさま伸び伸びと天に舞いあがり立ちのぼり、めらめら燃える焔のけはいが、ここまではっきり聞えるようで、ふるえるほどに壮観であった。」
太宰治著作、「新樹の言葉」で用いられた壮観を用いた一節です。立ち上る炎が思い思いにゆらめく姿と、その圧倒的な熱量が、遠く離れた主人公のすぐそばにあるかのような迫力を「壮観」と表現しています。
壮観は小説のような文章で表現する言葉として、とても使いやすい言葉だと言えます。感動的なワンシーンで主人公に語らせる感想にはうってつけでしょう。
例文④
また、他の例文として「~の壮観が見える」「~の壮観たる」と名称や名詞、地名や地形名に対して使用したり、「壮観を呈した」のように壮観と表現しうる状況になった、という使い方もあります。
いずれにしても、どれも”規模や景観のすばらしいさま”を様々に活用して用いられています。感嘆の言葉として比較的自由に使える場面が多いので、「壮観だな」と一言漏らすだけでも、その場の評価としては最大級の賛辞として成り立ちます。
壮観と圧巻・圧倒の違い
「壮観」と響きやニュアンスが似た言葉に「圧巻(あっかん)」や「圧倒(あっとう)」があります。たびたびよく比較され、使い方なども同じなので「圧巻だな」と表現されたり、「圧巻の様相を呈している」と言葉にされることがあります。
では、圧巻や圧倒が壮観とまったく同じ意味なのかというと、じつはまったく違う意味になっています。では、圧巻や圧倒と壮観にはどのような意味の違いがあるのでしょうか。
圧巻はもっともすぐれた場面という意味
圧巻の意味は、”物語・演劇・書物・歴史などの一連の枠組みの中で、最もすぐれた部分。”を指します。つまり旅先などで景色を「圧巻だな」と表現するのは間違い、となります。
壮観が見たままの感想であるのとは違い、圧巻は全体を通して最も良い、として評価している言葉なので、景色や風景を圧巻と表現するのは意味として通らないのです。
ですから、「圧巻」は使いどころを間違えてしまうと盛大な恥をかいてしまう可能性がありますので、使いどころには十分に注意しましょう。
圧倒はきわだってまさるという意味
「圧倒(あっとう)」の意味には、”段違いにすぐれた力で他に打ち勝つこと”や”他よりはるかにまさること”もしくは、”きわだってすぐれた力をもっていること”などが挙げられます。
壮観が景色のすばらしさを言及しているのに比べて、力強さなどで他者を突き放すといった意味合いをもつ圧倒ではまるで違った意味であることが理解できます。
ですから、「圧倒(あっとう)」の使い方としては、「彼の強さは圧倒的だ」「あの大きさにはいつも圧倒される」といった、強さや圧迫感を印象付けることが主な使い方になります。
壮観を使う際の注意点
このように、壮観という言葉は非常に大規模な景観がとても素晴らしく感動したという意味を一言で表現した言葉です。ですので、感嘆や感動した場面で使用することになりますが、同じ感動した場面であっても使ってしまうと変な表現になる場合があります。
そうした表現手法としてのタブーとは、いったいどういう事に使うと変になってしまうのでしょうか。
「見た目」以外では使えない
たとえば、「彼女の料理はまさに壮観な味だ!」と表現すると、料理の味の規模が大きくて素晴らしいと、少々意味が分かりにくい表現になります。味の深みがワールドワイドと解釈すればよいのか、とにかく理解に苦しむ表現になっています。
「壮観」は「観た目が壮大で素晴らしい」と表現する言葉ですので、見る行為が伴っていない文面では少々詩的すぎるきらいが強くなり、読む側に違和感を残しやすくなります。
味や触感など、視覚で表現する以外の場面では、あまり適切な使い方とは言えない事を覚えておきましょう。
壮観の由来・歴史
どのような言葉にも由来があり、そして歴史があります。言葉そのものが象形などの見た目を文字にしたり、甲骨から文字が生まれて言葉になったりと、その由来や歴史について深く学ぶことはより深い意味で学びを得るきっかけとなります。
では、壮観という言葉にはどのような由来があり、そしてどのような歴史で生まれた言葉なのでしょうか。
壮観の由来
「壮観」という言葉そのものの由来は判然としないため、それぞれの文字に焦点を当ててみましょう。まず「壮」という漢字には”おごそか・いかめしい”や”別宅・仮住まい”、”宿・店・旅館”などという意味があります。
次に「観」は、”みる・くわしくみる・ながめる”や、”考える・ものの見方・考え方”そして”かたち・すがた・ありさま”を意味する漢字です。
壮観はこの二つの漢字が合わさって生まれた二字熟語で、壮は草が盛んに生い茂る様子から生まれた漢字であることから、規模の大きさを表す熟語に用いられるようになりました。規模の大きいさまを見回す、として「壮観」となりました。
壮観の歴史
「壮観」として表記がのこされている最も古い文献は、平安時代、西暦827年に書かれた「経国集」がはじめてとされています。それ以前にどのような経緯で流伝してきたのか、もしくは造語として生み出されたのかは判然としません。
またそれ以外の文献では、西暦1300年前後(作者が定まっていないため正確な著作年は不明)に書かれた太平記で「其の壮観(サウクヮン)、奇麗、未だ曾(かつ)て目にも見ず」という文節に登場しています。
以来、さまざまな文献や書籍に登場しているため、厳密にはともかく頻繁に使われ始めたのは西暦1300年以降であることが分かります。
壮観の英語表記
「壮観」を英語で表記した場合は「Spectacular(スペクタクル)」となります。映画やドラマなどで「壮大なスペクタクルでお送りする~」などと表現されることがありますが、そのまま壮観として訳すといささか不自然になってしまいます。
これは、「Spectacular(スペクタクル)」には壮観という意味以外にも、”目を見張るような光景”や”大仕掛けな見世物”といったカタカナ英語としての意味があるためです。
なお、英語での「Spectacular(スペクタクル)」は光景や広義の意味でのドラマティックさを表現する使い方が主流となっています。
壮観はこのうえない景色という意味
この上ない景色、そしてそういう様子に感動した、と言葉に表す場合に「壮観」として使用します。歴史や由来、様々な類語などから壮観という言葉を探してまいりましたが、あなたにとってこの旅はいかがでしたでしょうか。
最後に振り返って、歩んできた道程を見返したときに、その景色はどのような物になったのでしょうか。