一蓮托生の意味とは?
一蓮托生とは「いちれんたくしょう」と読みます。現代の日本における一般的な意味としては「結果がいかなる状況になろうとも、行動や行先などを共にすること」といった意味合いとして定義されている言葉です。
一蓮托生にはそうした現代風の意味とはまた別に、語源となった仏教用語としての一連托生という言葉の意味を持っています。詳しくは語源や由来の項で説明しますが、この項では現代日本における「一蓮托生」の意味での説明を中心にご紹介します。
また、一蓮托生の使い方の例文や、類義語、英語表記、英語表記の例文などについてもご紹介しますので、一蓮托生という言葉がいったいどのような物なのかについて、しっかりと学んでおきましょう。
一蓮托生の対義語・類義語
続いては、一蓮托生という言葉の類義語や対義語についてご紹介してまいります。それぞれに具体的な一蓮托生という言葉とのりみの違いや使い方、例文を用いてどのようにして用いるのかを具体的にご紹介します。
対義語
対義語とは、対象となる言葉に対して全く正反対の意味合いを持った言葉、もしくは限りなくついになる言葉とに頼った意味合いを持った言葉を指します。しかし、一蓮托生という言葉には、その性質から対義語はありません。
類義語
類義語とは、対象となる言葉に対して限りなく近しい意味を持った言葉、もしくは全く同じ意味を持った言葉を指して類義語と定義します。一蓮托生という言葉の類義語についていくつか紹介します。
それぞれの類義語の意味や使い方、例文を用いて具体的な一蓮托生という言葉との意味の違いについても紹介します。類義語としての違いについて把握することで、一蓮托生の意味をより深く知ることができるでしょう。
類義語「連帯責任」の意味・使い方・例文
一蓮托生の類義語「連帯責任(れんたいせきにん)」です。意味は、「複数の人が特定の責任を一斉に背負うこと」「一つの責任に対して、特定の団体やグループがその責任の全てを負うこと」などと定義されている類義語です。
使い方の例文としては「この責任はプロジェクトを立ち上げた君たちにある。失敗ともなれば連帯責任をとってもらうのでそのつもりでいてほしい」というような使い方が考えられます。
英語表記で表現するならば「Solidarity responsibility(ソリダリティーレスポンシビリティ)」という表現で解釈されます。一蓮托生との違いは、連帯責任があくまでも悪い結果のみに言及される言葉という点です。
類義語「運命共同体」の意味・使い方・例文
一蓮托生の類義語「運命共同体(うんめいきょうどうたい)」です。意味は、「特定の組織やグループに属する人間が、その組織やグループと運命を共にすること」「不特定多数の組織やグループが先々の運命を共にし共存共栄をはかること」などの意味をもちます。
使い方の例文として「我々はもはや運命共同体だ。ともに目標に向かって走り抜けようではないか」という使い方ができます。一蓮托生との違いはペアに対して使うには運命共同体は適切ではないという点です。
また、運命共同体の対象となるのが「片方が利益を得てもう片方が不利益を被る」という関係性も運命共同体の範囲に含まれます。 英語表記では「Common destiny(コモンデスティニー)」として英訳されます。
類義語「死なば諸共」の意味・使い方・例文
一蓮托生の類義語「死なば諸共(しなばもろとも)」です。意味は、「死ぬときは一緒だ」もしくは「みちづれ」「 私が死ねばお前も死ぬ」というような意味をもちます。一蓮托生との違いは、一蓮托生は死ぬ事だけを意味する言葉ではない点にあります。
使い方の例文として「私はこのままでは終わらん!死なばもろともだ!覚悟しろ」というような使い方が一般的です。英語表記では「 If me die, all of you.(イフミーダイ、オールオブユー)」というように英訳されます。
一蓮托生の使い方・例文
続いては、一蓮托生という言葉の具体的な使い方を例文を交えながら紹介します。一蓮托生という言葉が一体どのようにして使われるのかについて、現代日本の基本的な使い方の例文をいくつかと、仏教用語としての一蓮托生の使い方についても紹介します。
例文①
「私たちの作戦は残念ながら失敗に終わってしまった。しかし、このまま何事もなく日常を過ごすわけにはいかないことはわかっていた。”私たちは一蓮托生なのよ。”そう、相棒が言う。どう生きるにせよ、私たちの未来はここからの行動にかかっていた」
何かしらの問題が発生して、その問題に対してどのような行動をとっていくのかについて二人の人間がお互い話し合う中で「一蓮托生なんですよ」と運命を共にする様お言葉に言い表している例文です。
現代風の意味の中で使う「一蓮托生」のなかでも比較的ポジティブな意味合いを持った使い方になっています。
例文②
「ああ、どうしたらよいのだ。この先はお先真っ暗どうあがいたって助かるとは思えない。目の前で次々と切り捨てられて行く同朋たちの姿を見ながら、私はつい先程まで一蓮托生の間柄であった彼らの姿を、まるであかの他人のように感じていた」
深い関係性として「一蓮托生」の間柄を感じていた相手が、次々と強敵に切る伏せられていく様をみて、遠い過去の出来事のように感じている様を表した例文です。急激に冷めていく人間関係の冷酷さと、死への恐怖で埋められていく思考を例えた例です。
例文③
「末永く生きてきましたが、これまで本当に助け合い、お互いを思い合える相手に出会えた私は幸せ者です。あっちに行っても一蓮托生、先に待っていますから、あとからゆっくり来てくださいね」
今わの際に連れ添った相手からそっと告げられる永遠の誓い、この例文は語源の仏教用語における「一蓮托生」の意味を表しています。あらゆる世界を超えて二人一緒にい続けよう、と言う理想的な関係性を表した意味での例文です。
例文④
他にも一蓮托生という言葉の現代的な意味で例文を挙げるならば、「地球という巨大な船に乗っている限り、私たちすべての生き物は一蓮托生の間柄といえます」「こうなったら一蓮托生だ、お前もこっちへ来い」などのような使い方があります。
現代用語としては、類義語に上がっていたように「みちづれ」や「死なばもろとも」のような比較的ネガティブな意味合いで使われることが、一蓮托生の現代的な意味として通用しています。
一蓮托生と一心同体の違い
一蓮托生の類義語としても挙げられていますが「一心同体」という言葉は、厳密に考えて一蓮托生との違いはどのようなものなのでしょうか。一心同体の意味や、一蓮托生との意味の具体的な違いについて紹介します。
一心同体は深い絆という意味
一心同体という言葉には、「気が合う」「阿吽の呼吸」といった複数の人間が心をひとつにして行動する、というような意味合いが強い言葉です。そのため一蓮托生に込められた意味の「死んでも運命を共にする」という強い覚悟とは違った意味合いを持ちます。
一心同体がどちらかといえばその場の行動に使われる意味を持った言葉であるのに対して、一蓮托生の言葉に込められた意味が、より深い関係性を表しているという違いを認識した上で、使い分けていくべきでしょう。
一蓮托生を使う際の注意点
一蓮托生という言葉が、語源や状況によって様々なとらえ方ができる言葉であることは分かりましたが、現代的な観点から見て注意すべき使い方や意味の捉え方について知っておきましょう。
一蓮托生という言葉の現代的な意味から考えて、注意すべき使い方として以下のような内容の注意点が挙げられます。必ずしも絶対にそうというわけではありませんが、現代文学としてはそのような捉え方となっています。
良い意味では使えない
一蓮托生として括られる相手にとって、一蓮托生が持つ言葉の本質的な部分に「死」を想像させるイメージの言葉であるために、あまり良い意味で捉えられることがないということには注意すべきです。
語源の仏教用語としては死んでも仲良く一緒にいようねという良い意味で言われる一蓮托生ですが、現代社会に生きる人にとって、「死」そのものが忌避される内容であるためにあまり良い意味で捉えられることがないのです。
一蓮托生の由来・歴史
ここでは一蓮托生という言葉の由来や語源、仏教用語として生まれて現代用語として変質してきた経緯の歴史などについてご紹介します。語源を仏教用語にもつ一蓮托生がどのような意味でこの言葉として成立してきたのか。
また、どうしてあまり良い印象として使われることが無くなってしまったのかについて、歴史や語源を紐解きながらひとつずつ見ていけば、新しい一蓮托生という言葉の姿を見ることが出来るでしょう。
由来
一蓮托生という言葉の由来はなんども申し上げてはいますが、「仏教用語」から来ています。一蓮という言葉にあるように、御仏はすべからく豪奢な蓮の台の上に鎮座していますが、蓮を掲げる言葉はそのほとんどが仏教に由来している言葉なのです。
語源
一蓮托生の語源である蓮の花は、御仏が座る場所です。ですが日本では死ねば御仏として浄土に至るとして考えられているために、一つの蓮に浄土でも生を托すという意味が語源となって生まれています。
来世思想である仏教において、「一蓮托生」の語源には、「たとえ死んでも、浄土では蓮華の花の上でいつまでも一緒にいよう」という意味があり、仏教の象徴的な花である蓮華に死んで仏となっても一緒に居よう、とする意味から来ているのです。
歴史
一蓮托生という言葉の歴史を紐解けば、「先立たば、遅るる人を待ちやせむ、華の台の半ば残して」という詩が残されているように、先に逝った相手が長年連れ添った相手を待つのに蓮の花の上で場所をあけてまっていますよ、という意味で謳われていた言葉でした。
そうした味わい深い言葉として伝わってきた「一蓮托生」の意味が現代風に移り変わっていく切っ掛けとなっていったのは、次第にその使われ方の意味に「道連れ」や「共犯」といった意味でメディアなどを通じて広まったことが切っ掛けとされています。
そもそもが「死」を想起させる言葉で、昔ほど「死」を身近に感じられなくなってきた現代だからこそ、死への哲学的な成熟性が失われ、このような意味へと移り変わることになったのではないか、と言われています。
一蓮托生の英語表記
仏教用語としての語源をもつ「一蓮托生」を英語で表現した場合にはどのようにして表記すべきなのでしょうか?類義語のなかでいくつか英語表記したものもありますが、それらの英語とどういった違いを表すことが出来るのでしょうか。
仏教的な音場の意味をそのまま直訳した場合は「Live together on one lotus.(ライブ トゥギャザー オン ワン ロータス)」と英訳できますが、これでは運命を共にするという意味にはなりません。
英語の例文を交えつつ、一蓮托生として意味の通じる英語表記がどのような形で表現されるべきなのかをご紹介します。
英語での例文と意味
「運命を共にする」という意味で英語表記した場合は「share the same fate(シェア ザ セイム フェイト)」と英語表記することができます。これから訪れるであろういろいろな運命を互いにシェアする、という表現です。
また別の言い方として「share my lot with another(シェア マイ ロット ウィズ アナザー)」として「運命を分かち合う」という訳し方で表現する方法もあります。いずれにしてもポジティブでもネガティブでもない表現となります。
英語での表現は直接的な意味として表現することになるので、曖昧な間接的な表現の多い日本語に比べると、本来意図している言葉とはまったう違った意味に捉えられてしまうこともあります。そうした表現には十分に配慮したい所です。
一蓮托生は運命と共にするという意味
さまざまな観点から「一蓮托生」の意味や使い方、類義語や英語表現。さらには由来や仏教用語としての語源などに触れて来ましたが、その意味について理解することができたでしょうか?少なくとも、あまりネガティブな意味を持っていなかった点がポイントと言えます。
人間社会は人と人とが手を取り合って生きているからこそ成り立っていますので、そういう意味では私たちは一蓮托生の間柄だと言えます。ですから、私たちは互いの足の引っ張り合いに終始していないで、利になる事に目を向けて行動するのが本当は良い事だと理解しています。
それでも目先の欲や利益や矛盾をとってしまうのは、それこそが人の業と言えるのかもしれません。どんな人とのつながりも一蓮托生と常に考えていられるならば、本当の意味での人類の未来が明るく開ける日が来ると言えるのではないでしょうか。